これの続きで、祖母の話。
お見舞いから帰って、家で適当にダラダラしていたがそれにも限界が来る。
同じ1秒のはずなのに喋るしかやることがなくて気遣いのダムが決壊しそうだ。
違う人間だから意見がたまに食い違い、普通なら擦り合わせをするが疲れている上に家族なので遠慮が無くなる。せっかちさんめ。
なので兄とゴルフの打ちっぱなしに行った。お互いに特段上手くもないが時間潰しにはちょうどいい。
無事体力を消費できた我々は闇の中からけたたましく響くカエルの声と、雨が屋根を叩く音を聞きながら健康優良児のように掛け布団を蹴散らしながら就寝した。
私は昨夜爪をカチカチしながら耐えていた違和感、枕の高さがあっていないことと母のゴォ……という排水管のようなイビキが全く気にならなくなっていた。
肉体的にも精神的にも、そんな余裕はなかったのかもしれない。あと爪を切っていた。
子気味良い音は長い爪からしか奏でられない。
夜中の2時くらい。耳が私の脳みそを叩き起した。
母のスマホが静まった暗闇でキンキン鳴っていた。
恐らくこれだろう。
早く止めてよ……と寝ぼけた頭で思っていたかもしれない。
夢と覚醒の間だったため、この時点はそれくらいしか記憶が無い。
緑のカバーのスマホがバイブレーションで床を這うように動く様子はなんとなく覚えている。
母の布団からにゅっと手が出てくる。音が止む。雨音の狭間で、電話の向こう側の声がよく聞こえた。叔母の声だった。
「お母さんが……」
細く、明言を避ける、蚊取り線香の煙みたいな声だった。
いつの間にか兄も動いていた。布団を蹴散らして3人で階段を下っていた。
この高血圧家族をご覧。もうトイレの順番戦争を水面下で行っているよ。
車を走らせ病院へ向かう。
当然太陽は昇っていない。雨も上がっていない。静かな自分の心拍数が不気味だ。
15分ほど走らせたが出会った車はコンビニのトラックと軽自動車の2台だけだった。
街は眠っている。我々は眠ってはいられない。できることなら眠ってしまう前に、母をたどり着かせなければならない。
夜の雨。視界が悪い中、取り敢えず運転をした。
フッ、と私が好きな近所のパン屋さんに灯りが着いた瞬間を見ることができて、これが夢じゃないんだなとようやく確信ができた。
何を正常に判断出来ているのか分からない。
頭の外側は眠っていたが、内側だけが高速で回転していた。
これほど正常な脳みそを前借りしたいと思ったことはない。車の中でラジオは何が流れていたんだっけ。
ずっとスマホを見ていた母が「亡くなったって」と呟いた。ようやく、赤信号に引っかかってブレーキを踏めた。
夜の病院は暗くて人が歩いていないだけで、そこにいる人達は変わらなかった。変わっていたのは、祖母のベッド周りが随分すっきりしていた、ということ。
機械がなくなり、管がなくなり、点滴棒がなくなっていた。
氷枕や、足を高い位置にするためのクッションもなかった。
布団越しに分かる祖母の体のシルエットは細く平たい。
そこには生き終えた、人間の生身の体があった。
百聞は一見にしかずとは言うが、生きている人間と生きていた人間の区別のなんと付きにくいことか。
今の祖母の方が生きているように見える。
これは多分、畑でカミキリムシを指で引きちぎっていた元気な頃の祖母のイメージが私の中で強いからなのであろう。
何も着いてない方が、生きているみたい。
みたい。生きて、いる、みたい。
こうやって文章にしている方が泣きそうになってくる。感情が追いついてきているんだね。
「まだお母さん寝てるみたい、寝てるみたいね」
母が呟いた。兄と私しかいないのに、イントネーションが母の地元の言葉だった。兄と私に話した言葉ではなかったので黙って聞いていた。
母の顔は見なかった。正確には見たが記憶から消しておいた。
母が祖母の体をさすっていたので私も触ってみる。
温かかった。体温が残っていた。
だが体温は残っているだけで新たに生成はされず、私がただ祖母の体温を奪っているだけである。それでも私は奪った。
関節も難なく動かせた。これから血が固まって、手を握って貰えなくなる。今のうちに手を握ってもらった。
肩を揉んだ。二の腕をさすった。お腹をマッサージした。ふくらはぎまで触れた。
生物が個体ごとに有するエネルギーは計り知れない。
無から人間は生まれない。食物として摂取するエネルギー以外に人間は人間から得たエネルギーを糧に時間を過ごす。
生物はそこに存在するだけで莫大なエネルギーを消費しており、また同時にエネルギーを放出している。
そのエネルギーの放出を逃すまい、と思った。
思ったから、触って体温を奪った。大気中に逃すにはあまりに惜しい。
その次の日、普通に仕事に行ったら普段しないミスを流れるようにやってしまった。
ボーッとしていて判断を間違ったのである。私が悪い。
先輩の血圧が心配になるくらい怒られたし未だに挨拶も返してくれない。
まあ嫌いな後輩を対外的に嫌う理由ができたら徹底的に嫌うわな。
人間が持つエネルギーは体温だけではない。
目に見えなくて知覚できないエネルギーも含まれている。
それは一度失ってしまうと、回復までに想定以上の時間を要する。
そんな知覚できないエネルギーが空けた穴を、人間は言葉で「悲しい」と呼ぶ。




